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ローマ時代のバイエルン   バイエルンの封建領主   バイエルン領土のなりたち
   
かつて500年余りの間、現在のバイエルンを構成する広大な地域は、ローマ帝国の属州であった。この属州はラエティアと呼ばれ、後にラエティア・セクンダとなり、その主都はアウグスタ・ヴィンディクムと呼ばれた。これが今日のアウグスブルクである。

 ローマ人たちは属州の建設を計画的に行い、まず軍事基地、次いで村落や町を整備し、綿密な道路網を敷設した。その遺跡は、ケンプテン(ローマ名カムボドゥヌム)、レーゲンスブルク(カストラ・レギナ)、パッサウ(バタヴィス)などの町に残っている。最も重要な交通の要所はアウグスブルクであった。当時のイタリアへの街道、ヴィア・クラウディアは、ここからケンプテンを経由していた。

 ハドリアヌス皇帝の治世(117-138)に、ラエティアはその最盛期を迎えた。 ...

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  紀元600年頃、今日バイエルンとされる地域に、三つの異なる部族が移住してきた。後にこの地域の名付け親となる「バイヤアン」と呼ばれる民、そしてフランケン族とシュワーベン族である。今日のバイエルン北部にあたる地域は、フランケン族の支配となったが、南部では、アレマネン族とバイエルン族が、レヒ河を境として住み分けた。

 初期のバイエルンの領土は、現在のバイエルンよりもさらに東方と南方に拡がっていて、東方では今日のケルンテン地方(バーデン・ビュルテンブルク州)、南方では今日のオーストリア東部とイタリア北部に及び、領土の中心はドナウ河沿岸地域にあった。10世紀から12世紀にかけて、この地域はバイエルン、ケルンテン、オーストリアという三つの公爵領に分かれた。バイエルン公爵領の首都はレーゲンスブルクであった。 ...

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  古くからのバイエルンの領土は、今日では「アルトバイエルン」と呼ばれる地域だけである。すなわちオーバーバイエルン、ニーダーバイエルン、オーバープファルツの三つの行政区域に該当する。

 1803年から1815年に、今日のバイエルンの北部と西部をなす地域が、新たにバイエルンの領土となった。すなわちフランケン地方とシュヴァーベン地方であるが、アルトバイエルンとは言語も気質も異なる。今日でもこの両地方には、プロテスタント信者が過半数を占める地域が健在である。

 1945年から1948年に、ヨーロッパ東部や南東部にあった旧ドイツ領を故郷とする190万人の引揚者や難民が、バイエルンに移住した。なかでも圧倒的多数を占めたズデーテン地方からのドイツ難民(ズデーテン・ドイツ)は、1962年に、バイエルン古来の三大部族に並ぶ「第四部族」という名誉称号をもらった。 ...

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バイエルン選帝候時代(1623-1806)   バイエルン王国時代(1806-1918)   第一次大戦後のバイエルン
   
1623年、バイエルンの領主ヴィッテルスバッハ家は、ドイツ皇帝選出の権利を有する選帝候の地位を得た。三十年戦争でドイツ皇帝の味方についた報償として、公爵であったマクシミリアン一世が初代選帝候に昇格したのである。

 しかし1714年、マックス・エマヌエル選帝候(1679-1726)が派手な外交政策を展開し、バイエルンは存亡の危機にさらされた。マックス・エマヌエルはフランスと同盟を結び、1704年のヘヒシュタットの戦いで、イギリス、オランダ、デンマーク、プロイセン、ハノファー、ヘッセン、ドイツ皇帝軍からなる連合軍を敵にして大敗北を喫した。バイエルンがオーストリア軍に占領されると、マックス・エマヌエルはオランダに逃亡し、占領軍に抵抗して蜂起したバイエルン農民は惨殺された。 ...

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  1806年1月1日から1918年11月8日までの約100年間、バイエルンは王政となり、6人のバイエルン国王が立憲君主として統治した。マックス・ヨーゼフ一世がフランス皇帝ナポレオン一世と同盟を結んだ報償として、初代バイエルン国王に格上げされたのである。

 それまでアルトバイエルン、フランケン、シュヴァーベンの三地方の域内で独立を保っていた数多くの小領邦は、バイエルン王国に統一された。バイエルン王国の首相となったモンジェラース伯爵は、フランスを手本とした近代国家バイエルンの建設を目指した。すなわち、法の下の平等、優遇税の廃止、俸給制での有資格の官僚による行政機構、宗教的寛容、そして1818年の憲法制定である。行政単位は集落に一本化された。 ...

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  第一次世界大戦の戦禍は、バイエルンに壊滅的な打撃を与えた。1918年11月7日、クルト・アイスナーと彼の同志達によって「共和制バイエルン」が宣言され、バイエルン王国は終わりを告げた。

 1919年1月12日には、民主選挙によって議会が選出された。しかし2月21日、クルト・アイスナー首相は暗殺され、急進共産主義者たちが「レーテ共和国」の成立を宣言したが、それは直ちにドイツ帝国軍によって制圧された。その後の数年間、バイエルンは右翼過激派のアジトと化し、1923年11月8日には、アドルフ・ヒトラーがクーデターを企てるに至るが、それは失敗に終わる。 ...

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ナチス時代のバイエルン   バイエルンの戦後復興    
     
本来、バイエルンの人々はカトリック教会と君主制を信奉していたが、1933年3月5日の総選挙では、バイエルン住民の43%がアドルフ・ヒトラーをドイツ帝国宰相に選んだ。その結果、ナチスの「均等化政策」によって、それまで独立国家であったバイエルンは、ドイツ帝国の単なる一行政州に格下げとなった。

 今日でもバイエルンの各地で、ナチス独裁時代の記憶が残存する。ミュンヘン郊外のダッハウには、初めての強制収容所が建設された。当初は政治犯や被差別民が、何ら判決もなく強制収容された。後になるとダッハウ収容所は、数多くの外部作業場を擁する強制労働所となり、諸国から移送されて来た捕虜や囚人が、軍需工場での強制労働を強いられた。 ...

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  第二次大戦後、バイエルンを制圧したアメリカ進駐軍による軍事政府は、1945年9月19日付の「第二宣言」によって、バイエルンの境界線を1933年以前の状態に復帰させた。しかしライン・プファルツとリンダウは、バイエルンから割譲された。ソ連による占領地域と隣接し、いわゆる「鉄のカーテン」と国境を接するバイエルンは、1989年に至るまで、経済上、交通上のさまざまなハンデを背負った辺境となった。

 空爆被害は、ミュンヘンが33%、ニュルンベルクは55%、アウグスブルグは24%であったが、ヴュルツブルグでは74%が瓦礫と化していた。しかしバイエルンの戦災は、ドイツ全土の戦災の5%に過ぎなかった。また、軍需工場の解体に際しても、バイエルンはあまり対象とならなかった。そのおかげで早くも1948年には、バイエルンの工業生産は、戦前の76%のレベルにまで復興しえた。 ...

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